解説/ブルバキ大学社会学講師・幡丸亜希子
| ||
| ||
彼─ G.P.S.─と初めて会ったのは、三年ほど前のことになる。 ある日、いつものように教授の講義を拝聴させていただいたあと、教官室にくるようにといわれた。腰掛けた私の前に、一冊の分厚いファイルが差し出された。 「昨日、妙な青年が訪ねてきてね、置いていったんだ。『是非読んでくれ、感想を聞きたい』というんだが、私は学会の準備で忙しい。うちの大学の卒業生だというから、無下にもできない。君、すまないが代わりに読んでやってくれないだろうか?」
忙しいのなら断ればいいようなものだが、その辺が教授の教授たる所以である。私はファイルを手に把った。表紙には『知の起源』と書かれていた。
一週間後。母校の教官室を訪れた彼を、私はカフェテリアに誘った。彼は相手が教授でない(しかも若輩者でそれも女性)ことに一瞬残念そうな貌をしたが、素直に従った。 彼の顔に当惑が浮かんだ。下っ端とはいえ仮にも象牙の塔の一員である私が、そのような表現を使うなどとは思ってもみなかったのかもしれない。
「この作品(私はあえて作品≠ニいう言葉を使った)は、まず日本の学界には受け容れられないと思います」 彼は驚いた表情になった。 読み終わった後に気付いた。『知の起源』は、知識で読むべきものではない。感覚─feelingよりはsensitiveという表現のほうがしっくりくる気がする─が必要なのだ。大人はそんな読み方をしない。なら、彼は誰に向けてこの大論文を書いたのか。 恐るべき子供たち。
それから私は、彼にいくつかのアドヴァイス(といえるほどのものでもなかったが)をした。もっと専門用語を減らし、わかりやすくしてはどうか。たとえば大学の一般教養─聞いているのは高校を卒業したばかりの、専門知識を全くもたない学生たち─の講義をしていると仮定して、書き直してみてはどうか。 それは下手をすると作品自体のパワーを削ることにもなりかねないが・・・。彼は素直に頷いた。 「あと、もうひとつの方法が考えられます。『知の起源』を英語に翻訳して、アメリカでこちらと同じことをしてみるつもりはありませんか? 向こうの学者はおしなべて日本より柔軟な思考をもっています。少なくとも、この国よりは認められる確率が高いと思います」 英語力にはあまり自信がないのです、と彼は答えた。信頼できる翻訳者がつけば、話は別ですが。ただ、選択肢のひとつとして、頭には入れておきます。 別れ際、私は彼にいった。 「こうして関わりをもった以上、私はこの作品の行末に少なからず興味があります。将来、もし出版されることになったら、知らせてくれませんか?」 そして、自宅の住所と電話番号を書いたメモを渡した。
それから三年─私はその間に出産を経験し、娘の桜はもう一歳半になろうとしている─。彼とは一度も会っていなかった。連絡もなかった。私は彼の存在自体を忘れていたといっていい。少なくともあの日、彼からの小包が届くまでは。
中身は三年前と同じくらいの、分厚いファイル。表紙には『THE ANSWER』とあり、その脇にサインペンで「最終稿」と大きな字で書き加えられていた。 『THE ANSWER』。一読して、私は驚いた。新たに加わった「ラブレター」と「ヘイゼルの森で」が、見事に「恩師への書簡」のイントロダクションになっている。彼はちゃんと、最も書きたかったことに対しては全く妥協せず、つまりパワーダウンさせることなく、それでいて多くの読者を引き込む方法論に達したのだ。 そして、なんといっても最終章「マザーランド」。まさかこの本を購入して先にこの解説を読む人はいないだろうが、これを読んでいるあなたがそんな人間だとしたら、先に忠告しておく。 最後まで読まないと後悔するよ。 ただ、世間にはそういうへそ曲がりが割と多いようだから、用心して内容には触れないでおこう。まず、本文を読んで欲しい。本書『THE ANSWER』には、様々なトラップやギミックが満ちている。読者にはそれを予備知識なしで、身をもって体験して欲しいのである。 それに、恥ずかしい話だが、三年経ったいまでも、私は「恩師への書簡」─『知の起源』から姿を変えた─の内容が、完全には理解できないのだ。感覚がない以上、知識で読むしかないのだが、その知識まで不足しているのだから仕方がない。「恩師への書簡」は本書のいわばメインディッシュだ。メインディッシュを充分に味わえない人間に、コースを語る資格はないだろうと思う。 数日後、彼から電話があった。 「読んでもらえましたか?」
気のせいだろうか、その声には自信が溢れているように思えた。 電話の向こうで、彼が頭を下げる気配がした。律儀な人だ。
「それで、折り入ってお願いがあるんですが」
驚いた。もちろん辞退したが、彼は強硬だった。
それにしては本文に私のことを一言も書いてくれていないじゃないの。まあ、これはないものねだりというもので、私のことなんて書いたら文章と構成にキレがなくなるだろうことくらいは、私にも解る。 だから、もしこの文章が解説としてちゃんと本の末尾に掲載されているとしたら、それは私にとっても非常に名誉なことなのである。なぜなら、この作品(最後まであえて作品≠ニ呼ぶ)が十年後も残っていたとしたら、途轍もないモンスターに化ける可能性があるからだ。それを私は楽しみにしている。無名の若者が書いた本が、頭の固い権威と無意味でくだらない知識を、木端微塵にしてくれることを。 |